日本教育新聞「陽だまり」に本園の取り組みが連載されました
- メディア掲載
本園の取り組みを、2026年5月25日から6月22日の『日本教育新聞』「陽だまり」欄に、全5回にわたって掲載していただきました。日本教育新聞社の許可を得て、以下に転載いたします。
「遊ばなかった」の意味
「息子は『礼衣ちゃんはね、おなかからご飯を食べるんだよ』と、(普通に)何の偏見もなく話をしてくれます。それがとてもうれしいんです」
クラスの母親から、そんな手紙が届きました。また、別の父親からは、こんな手紙も寄せられました。
「障がいのある子と一緒に生活することは、とても良いことだと思います。始業式の日の夜、『礼衣ちゃんと遊んだ?』と聞くと、『遊ばなかった』と。次の日も、その次の日も同じ質問をしたのですが、同じ返事でした。でもある日、『今日は、○○ちゃんと、礼衣ちゃんと遊んだ』と話してくれたのです。私は、礼衣ちゃんが特別な子ではなく、みんなと同じ存在なんだということを、年少の娘から教えてもらいました」
散りかけた桜の咲く園庭で、バギーに乗ったまま年中児の集団遊び「むっくりくまさん」の輪の中に入り、一緒に遊び始める姿がありました。
令和3年4月8日、始業式の日の朝でした。ケア児の名前は堂下礼衣ちゃん。生まれて1年生きられる可能性は10%と告げられた、先天性13トリソミーの女の子でした。付き添いの看護師から「歩くことも話すこともできない」と説明を受けても、ごく自然に「むっくりくまさん」の輪の中へ入れてくれたのです。
クラスには、発達の気になる子や、言葉の遅い子もいます。しかし、子どもたちにとって、それが友達であることへの「障がい」には、全くなっていません。A君はA君なのです。子どもたちは、その子自身を丸ごと認め、受け入れています。子どもに「障がい」という概念はないのです。あるとすれば、それは周りの大人がつくっていくものなのでしょう。
交代制になったバギー係
〈洗っても、洗ってもポケットから出てくる砂。今日は砂場で遊んだんだなと思うとうれしくて〉
礼衣ちゃんの連絡帳には、お母さんのそんな思いがつづられていました。幼稚園児の保護者にとっての「当たり前」が、実はどれほど大きな「幸せ」なのかを、改めて気付かせてもらいました。
砂遊びに始まり、水遊び、そしてプールまで。幼稚園では、全ての活動について「どうしたら参加できるか」という視点で、看護師と職員が一緒に考え、取り組みました。
初めての運動会を前にした、保護者との打ち合わせの席でのことでした。保護者は「何か一つ皆と一緒に参加できれば、後は見学でも」と考えておられました。しかし、幼稚園の方針は違いました。どうすれば全種目に参加できるかを考える――それが私たちの大前提でした。
その提案に対し、保護者から「迷惑を掛けないでしょうか」という不安と遠慮のようなものが伝わってきました。しかし、私たちにとっては、同じ生活を送る園児の運動会で、一人だけ見学させることの方が、むしろ不自然に思えたのです。
全力で走る力や、集団で演技する力も、もちろん大切です。しかし、これからの社会を生きる子どもたちにとって、いま育まなければならないのは、そうした力の基盤となる「共に生きる力」、すなわち「共生力」ではないでしょうか。
運動会当日、看護師が全力で押すバギーの横を「負けるものか」と力いっぱい走る園児たちの姿がありました。遠い母の実家から駆け付けたおばあちゃんは、応援席でずっと涙を流していたそうです。
年中になるとクラス替えもありましたが、朝、礼衣ちゃんのバギーを押す役は、希望者が多過ぎて、最後には当番制にすることで落ち着きました。
礼衣ちゃんの周りには、いつも誰か友達がいました。給食が終わると、胃ろうを終えた礼衣ちゃんを囲み、絵本を読み聞かせる。そんな風景が、いつしか幼稚園の日常になっていったのです。
初めての給食当番で
年中児になった礼衣ちゃんは、給食当番も務めるようになりました。これは、初めて当番活動で看護師とチーズを配った日の、担任とお母さんの連絡帳でのやりとりです。
担任は、連絡帳にこうつづっていました。
「今週は4人で給食当番をしています。月曜日は礼衣ちゃんがお休みで3人でしたが、火曜日は一緒に当番ができました。給食の後、私が『今日は礼衣ちゃんがいて助かったね』と声を掛けると、給食当番の子どもたちは『うん!』というように大きくうなずいたんです。みんな、礼衣ちゃんを大切な仲間の一員として思ってくれているんだなあと感じました」
それに対して、お母さんは次のように返されました。
「私は、このお話を聞いて、自分の考えが間違っていたことに気付きました。『地域の子どもたちと当たり前に過ごせる環境なのに、どこかで“戦力にならないのに”参加させてもらっている』という遠慮の気持ちを持っていたのです。
でも子どもたちは違いました。『チーズを配ってくれて助かった』『みんなで当番ができてうれしかった』と、ただ素直に受け止めてくれていたのです。
週末、礼衣が持ち帰ったエプロンを洗い、アイロンをかけながら、母親冥利に尽きるなあと思いました。これも幼稚園に通えたからこそ経験できたこと。このうれしかった気持ちを忘れたくないと思いました」
礼衣ちゃんのお母さんと話をする中で、気付かされたことがあります。
お母さん自身、小・中学校時代に、支援学級の子どもたちとの学びは「交流学習」という形が中心でした。音楽や体育など限られた教科の時間だけ共に過ごし、障害の重い子どもたちは支援学校へ進むため、日常的に関わる機会は少なかったといいます。
「インクルーシブ」という言葉に、障害のある子の保護者自身が遠慮やためらいを感じてしまう背景には、そうした時代の教育の在り方があるのではないかと考えさせられます。
礼衣ちゃんと育った3年間
「礼衣ちゃん、今日は来られた?」
年中の発表会の朝、礼衣ちゃんが体調不良で休んでいたことを一番に心配して、職員室を訪ねてきたのはクラスの子どもたちでした。
発表会の劇「ブレーメンの音楽隊」はニワトリ役だけ不人気でしたが、担任が「礼衣ちゃんがニワトリ役をやります」と伝えた途端、手を挙げる子が増え、「隣のネコ役でもいい」と言うほどの人気になりました。
年長最後の運動会では、礼衣ちゃんも全種目に出場しました。障害物競走では、友達が全力で押すバギーが「モーゼの海割り」のように開かれた道を駆け抜け、グラウンドは大きな声援と温かな拍手に包まれました。私たちが大切にしてきた光景が、そこにありました。
卒園式も体調不良による入院先からの出席でした。主治医の支えにより一時退院が認められ、式では礼衣ちゃんの名前が呼ばれると、卒園児全員が大きな声で「はい」と返事をしてくれました。
進学先は地元の森田小学校です。特別支援学校が適当との就学指導委員会の判断もありました。しかし、保護者の願いと主治医の「仁愛幼稚園で3年間、友達と共に生活してきた歩みを考えれば、地域の学校で学ぶことが自然ではないか」という後押しがあり、地域の学校への入学が認められました。
礼衣ちゃんが幼稚園で得たものは大きかったと思います。
しかし、成長したのは礼衣ちゃんだけではありません。困っている友達に自然に手を差し伸べること。違いを特別ではなく、その子らしさとして受け止めること。礼衣ちゃんと過ごした3年間は、子どもたちの中に「共に生きる力」を育みました。
そして、その歩みはやむことはありません。拡張型心筋症の晴香ちゃんが入園してきました。礼衣ちゃんたちが残してくれた「共に生きる力」の物語は、今、新たな一歩を踏み出しています。
少しだけ足を緩めた鬼ごっこ
「医療的ケア児」という言葉を、晴香ちゃんのお母さんは出産後に初めて知ったそうです。先の見えない不安を抱える中、礼衣ちゃんが幼稚園で楽しく生活する記事を目にして、「うちの子にも居場所がある」と感じたというのです。
晴香ちゃんは、病院と家を行き来する生活が続き、友達と過ごす機会は多くありませんでした。歩けるようになったのも年少で入園する前の夏のことでした。入園当初は大勢の先生や友達に囲まれることに驚き、看護師の膝に座ったり、抱っこしてもらったりしながら過ごしました。4月最初の参観日の感想に、お母さんは「晴香の場合、幼稚園に来られただけでもいい。このままでも」と記していました。
しかし、友達の力は、まるで「北風と太陽」の太陽のようでした。優しく声を掛けてくれる友達に囲まれ、こわばっていた表情は少しずつ柔らかくなっていきました。給食の時間も、最初は椅子に座ろうとしませんでしたが、みんなが「おいしいね」と話しながら食べている姿を見ているうちに、少しずつ輪の中に入っていけました。経鼻経管栄養だけだった食事も、口から食べられるようになっていったのです。
鬼ごっこでは、晴香ちゃんが鬼になると、周りの子どもたちは少しだけゆっくり逃げました。晴香ちゃんが逃げる番になると、鬼役の子も少しだけ足を緩めました。誰かが相談したわけでも、先生が教えたわけでもありません。みんなが楽しいから、そうしていたのです。そこには、幼稚園が大切にしてきた「共に生きる力」がありました。
困っている友達に手を差し伸べることも、みんなが楽しめるように工夫することも、子どもたちにとっては特別なことではありません。当たり前のこと、自然のことでした。
インクルーシブ教育は、制度や理念から始まるのではなく、一人一人を仲間として受け入れる子どもたちの日常から始まるということを、礼衣ちゃんと晴香ちゃんたちが教えてくれたのです。
出典:『日本教育新聞』2026年5月25日〜6月22日「陽だまり」欄/日本教育新聞社の許可を得て転載
